V イメージとしての「姫」  

 

「人造少女の叛乱」より

薄暗い屋根裏部屋で、いたいけな少女が椅子に縛りつけられている。
床には、彼女を喜ばせるためなのか、熊の縫いぐるみや玩具の化粧箱などが散らかっている。

また、下半身を剥き出しにされた彼女の体には、恥ずかしい姿で写されたポラロイド写真が何枚も張り付けられている。
少女は、やがて、目隠しをされ、口と陰部にホースを突っ込まれて、快楽の実験の餌食にされるであろう。
これら一連の写真群は《いつか王子さまが…》と題されている。

さらに、《人造少女の叛乱》の連作には、操り人形と化した少女が胴体と脚を鋭く切断される危険なイメージが一枚ある。 とはいえ、これは、実際に切断された少女=人形の身体をフィクションとして提示したイメージというわけではなく、おそらくは、フィルムにカッターか何かで細工したもののようである。

いわば〈切断のイメージ〉ではなく〈イメージとしての切断〉であり、切断という抽象的な欲望そのものが作品に焼き付けられるといった感じで、具体的な殺戮シーンをフレームの中の空想劇として表現した場合などより、かえって見る者に強い印象を残すかもしれない。

そして連作《からくり少女》では、ついに、陰惨な実験の結果、無残にも解体されてしまった少女人形の残骸が登場する。
機械仕掛けの自動人形と思われる少女は陰部にホースを挿入されたまま、右腕と左足の膝から下の部分をもがれ、くず鉄に変わり果てた身体を壁にもたせ掛けて静かに眠る。
破壊の後の静寂と少女の穏やかな表情に、なぜだか、妙にノスタルジックな気分をかき立てられる。

現実に起こった少女の監禁事件に対して激しい嫌悪感を示す村田氏にとって、少女の監禁やサディスティックな破壊行為はあくまでも妄想にすぎないという。

だとすれば、そういった行為に耐えうる少女も現実の少女ではなく、イメージとしての少女であるはずだ。
そのあたりのことをご本人に聞いてみた。



「モデルの選択にもこだわりがあるように思うのですが、その選択基準のようなものがあるなら教えてください。」

「やはりロリータ風の方が望ましい。これは個人的な趣味です。妄想世界なので、実年齢にはこだわりません。
何故にロリータかは心理学的には解明できますが、他の理由として、少女である方が成熟した女性より見た目に「いたいけな」感じが出る。
この「いたいけな」というものが好きなのです。
また、やはり姫とは未婚の乙女ということなので少女です」



「村田さんの作品には「姫」という言葉がしばしば使われていますが、あなたにとって「姫」とはどのようなものなのですか。」

「モデルを姫と呼ぶのは、特別大切な存在としての意味、この現実世界のものではない存在としての意味。
また性格として、姫のように如何に凌辱されようと凜とした強さ、またそのような仕打ちに何も感じない白痴さ加減。
作品の少女たちが無表情なのもそのような性格をトレースさせているから。
何かひどい仕打ちをされていようが、意に介さないような振る舞いや表情。唯の少女にあのような過酷な仕打ちはできないのです。

唯の少女であのシチュエーションならば、隷属的イメージが強くなる。
僕は隷属というのが苦手です。
例えば猫は好きですが、犬はだめ。猫は好きな時に構い可愛がれるけれど、犬は常に愛情を与え、散歩をしないといけないというのが苦痛。

犬は常に何かを期待して人間を見ています。
女性でも隷属させると、それの代償として多大な世話をしなくてはならない。
彼女の関心はご主人様の自分に常に向けられている。こんな息苦しい関係は到底耐えられない。」

いかなる凌辱にも耐えうる「凜とした強さ」という言葉は、村田氏の好む少女が、やはりただの無垢な少女ではなく、高貴な身分の存在か、あるいは精神的な貴族意識をもった存在であることを示している。

それは、「現実世界のものではない」ということから考えて、イメージとしては少女神のような存在といってもいいかもしれない。

スナイパー誌上に掲載された最新作『月夜見の姫』で月を孕む姫のイメージが提示されていることを考慮すると、月の少女神ディアナが即座に思い浮かぶが、興味深いことに、村田氏は、この冷たい美の象徴である女神を崇拝した十六世紀フランスのマニエリスト、フォンテーヌブロー派の《ガブリエル・デストレとその妹》から想を得て、互いの乳首をつまみ合う二人の少女を写したエレガントかつエロティックな作品を制作している。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「人造少女の叛乱」より


一方、酷い「仕打ちに何も感じない白痴さ」という発言からは、村田氏の少女のイメージが何をされても無感覚な〈もの〉、すなわち人形に近いということも推測できる。

そして、隷属させた女との現実的な「息苦しい」関係に煩わしさを表明する村田氏には、生身の女との関係を嫌い、人工的(反自然的)世界に棲む女へと逃避する心的傾向が見られる。

しかしながら、村田作品にあらわれる少女がすべて、冷たい人形のように不毛で何も産み出さない、遊戯的な性格を与えられているわけではない。思春期という幸福な時代のみに生きるバルテュスの少女のように、「妻にも母にもならない」というわけではなさそうだ。

いくつかの作品に見られる、子宮からのびていく縄や蜘蛛の糸のように放出される細い紐などのイメージを、胎児との関係を暗示する臍の緒のシンボルと見なすこともできるし、女陰からのびる三本の鎖に蛙が繋がれている作品や眼帯をつけた女学生が蛙の卵のようなものを産み落とす作品も、生殖機能が少女と無関係でないことを示している。

ビロードのドレスやフリルのついたストッキングやエナメルの靴などを身につけて淫らで優雅な遊びに耽る清楚な少女は、魔術的な生殖の力をもつ母神となる可能性をも秘めているのだ。


W 呪術的エロスを目指して さて

インタビューの最後に今後の方向性について聞いてみた。


「現在は呪術的なエロティシズムを目指しています。そこにはアニミズムのように、女陰崇拝の感があることは否めないのですが。」

村田氏には、過去の作風を変えようと試行錯誤していた時期があるという。
そのころに制作された作品が、たとえば、西洋のボンデージを特に意識した連作《赤い靴》などである。顔の見えない匿名の女が、ハイヒールを下腹部に突っ込まれたり、フィスト・ファックされたりする。

他の作品群とは少し毛色の異なるこの連作に胚胎する方向性も捨て難く思われるが、アンドレ・ブルトンの『魔術的芸術』に触発された村田氏が自分の方向性を再確認し、古代から現代に至るまでの呪術的な芸術を消化して、新たなエロスの世界を展開してくれることを切に期待する。

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撮影 山崎由美子